私はこんなことを考えている

日々の生活で障害になったことを消化するブログ。考えたことや学んだことの備忘録としても活用していくつもりです。

属性と原理

 こんばんは。少し余裕があるので、最近のトピックで気になっていた「膜理論」について書きたいと思います。

膜理論については、グループの中や、ツイッターでもちょっと前話題でした(少し前の話なので引用はふせます)。

 

膜理論について、というか、それに付随する人々の反応が気になりました。端的に言えば、痴漢行為者=自閉症の人=膜持ち、となるのが短絡的すぎて不快でした。

 

 この間の集中講義で習った、「心の顔」というのを思い出しました。

人の顔は人によってかなり異なります。パッとみたらわかる、当たり前のことです(一重か二重か、鼻が高い低い、など)。でも、一方で定められているパーツは人にとって普遍的なものです(目がある、鼻がある、など)。

同じように、心にも顔がある、と習いました。「心の顔」というものです。個々の価値観はかなり異なります。でも、人には普遍的な感情や道徳があります。

彼らは、「膜もち」や「障害」という属性が付与されることで、「その人には心の普遍的な価値が存在しない」と捉えているように感じました。

その属性の前に、生きている人は皆、「人間」であるということを忘れているのかな、と思いました。

 

 この間の講義では、心理学者のコールバーグが提唱した「道徳性発達理論」(人間の道徳的判断に注目し、その判断が3つのレベルと6つの段階をもつ)も習いました。

その最終段階である、第六段階=「普遍的な倫理的原理への志向正しい行為」で考えられていないのか?と思いました。

  • 「良心」にのっとった行為のこと。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することを意味する。

属性が原理を超えて考えてしまっている。属性で原理を隠している。私も忘れがちなので、気をつけないとと思って生活しています。

 

 また、このような属性はしばしばレッテルとして機能します。「この属性にある人はこういう人だ」と思ってしまう。それが周囲とのスティグマとなっていく。

でも、はてなブログにあるブログも、エッセイも、一例に過ぎません。一般化したり普遍化していて、それ忘れている感じが不快でした。

 

 このトピックしてもそうですが、「普遍的な倫理的原理への志向正しい行為」を忘れている人に出会うと大変不快です。疲れますし、いらだちます。

私の学問ではこのようなことは許されないので、とても居心地が良いです(全員がそうだとは言えませんし、決して他を排斥する意ではないです)。

 

では、今回はこのへんで。