私はこんなことを考えている

日々の生活で障害になったことを消化するブログ。考えたことや学んだことの備忘録としても活用していくつもりです。

映画をみたので

 

 

あの頃映画 「霧の旗」 [DVD]

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 主人公桐子は無実の兄のため、大塚弁護士に依頼をするが貧乏なために断られる。上京した桐子は大塚弁護士の愛人に罪を着せ、大塚弁護士から愛人の身の潔白を証明してくれと頼まれる。

 大塚弁護士は説得のため、何度も何度も桐子のバーに訪れる。弁護士がワインを手で温め、その上に桐子が手を重ねるシーンで「まだ、まだ、まだだめよ、先生…。あら、やっと温まりましたわね。先生、手が温かいのね。ただ、手が温かい人は心が冷たいといいますわね」と言う。

 この台詞、ぎりぎりまでいじめて、相手がもうダメだという時に赦して、最後に今迄のは嘘よ、というオチと、彼女の二面性をよく表した台詞だと思う。

 「弱いものを助ける、それが、先生の商売なんでしょう」と自分が先生に懇願した言葉を、今度は自分に懇願してくる先生にそのまま言い返すシーンがある。トンネルで撮られているために、トンネル内にその言葉が響き渡って消えていく。その様子がその言葉が弁護士を呪いのように締め付ける言葉、それなのに嘘であるということが表れていて素晴らしい演出だと思った。

 

 

 

イントゥ・ザ・ワイルド [DVD]

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  ケンカの絶えない両親に抑圧されて育ったクリスは、大学卒業と同時に放浪の旅に出る。憧れの地アラスカに着いた彼は、何者かが放置したバスの中ではじめる。雄大な自然の中、はじめて手にした自由を満喫するクリスだったが、ある日獲物を得られなかった末に毒性の植物を食べてしまい、飢餓のために死んでしまう。

 彼のいままでの人生、支えとしてきた古典の本、今まで出会った人びとを交互に映しながら、彼がアラスカで得た最後の英知を描く。

 

自分の人生を理性で支配したら、自分の可能性は崩壊させられる。 

 こういうふうに、 クリスは縛られることをとにかく嫌うのだけど、無意識に人にそれを課してる節がある。現状維持が嫌い、成長・経験を積むことが大切で、他人の思考が必ず入る人間関係を嫌う。

 それって全然自由ではないと思うのですね。特に成長に駆られているところが。自由というのなら、成長や経験、過去・未来のしがらみから放たれてこそ、自由であると思います(実際できるかはおいておいて)。

 クリスが名前を変えて放浪者を関した名にしたこと、親の存在を認めないこと、そこにも自分を縛っているような印象をうける。

 

 でも、ロンと会って、「愛は許すこと、それができたとき神が見える、光が見える」

と言われた瞬間におひさまが指して、「マジか」ってなって、それを分かち合うのは得られなかった親の愛情を与えてくれるロン。

 そのとき、人間関係にも自然な営みがあること、自由があることを少し感じたのかな~と思う。

 

 最終的には食中毒からの飢餓で死んでしまうのですが、死の寸前、

幸せは、分かち合えた時に現実となる

と書いてしにます。いま、大学院で非常に孤独なので、共感できましたね。人のいない荒野でも、人が密集した都会でも、孤独ならば幸せは現実を帯びない。私はその傾向がかなり強いので、人間同士の関わりがないと幸せを感じなくて、心がしんでゆきます。

 その間、両親を思い出してなくのですが、ここでクリスは親を許せたのだとわかりました。あと、署名を自分の本名に戻しました。名前を戻すことは、縛られにいくためではなく、いままでの人生を許して、本来生まれもった自由に還ることです。

 この作業ののち、彼のうえに、青空からおひさまが覗く。彼が許したと同時に、彼は自由になり、幸せを手にし、それが空からの光となって現実にあらわれたのです。